- 蔦屋重三郎の生涯
- 子孫はいるのか
- TSUTAYAとの関係は?
- 蔦屋重三郎の死因
2025年大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公・蔦屋重三郎。
彼に子孫はいるのか?あの有名なTSUTAYA(蔦屋)とはどんな関係なのか?など、色々と気になりますよね。
この記事では蔦屋重三郎の生涯を詳しく紹介し、ていきます。
この記事を読んで大河ドラマをさらに楽しんでもらえるといいな!
蔦屋重三郎とTSUTAYAの関係は?子孫はいるの?
結論として、蔦屋重三郎とTSUTAYA(蔦屋)の経営者は血筋的には全く関係がありません。
また、蔦屋重三郎に子孫がいるのかどうかは判明していないようです。
しかし、あの有名なカルチャー企業TSUTAYA(蔦屋)と同じ名前なので「子孫が経営しているのでは?」と思った人も多いはず。
TSUTAYA(蔦屋)の創業者である増田宗昭氏の祖父の置屋の屋号が「蔦屋」だったことが、名前の由来となっているそうです。
「同じ屋号だった」という点では共通点がありますが、血のつながりはないようですね。
さらに増田氏は後々知人のアドバイスにより「蔦屋重三郎にあやかりたい」という理由も付け加えたとも言われております。
誰もが知るあのTSUTAYA(蔦屋)の創業者があやかりたいと思うくらい、蔦屋重三郎という人物はカルチャー文化において後世まで大きな影響を及ぼした人物であったということですね。
蔦屋重三郎の死因とその生涯とは?
蔦屋重三郎が生きたのは、1750〜1797年。
第10代徳川家治の側用人である田沼意次が老中として権勢をふるっていました。
江戸の町人たちが中心となって商業が発達し、浮世絵や娯楽のための本が流行り、自由な文化が広まった華やかな時代です。
しかし、田沼意次が失脚した後は、老中・松平定信による「寛政の改革」により民衆は厳しい倹約や統制を強いられました。
幼少期・蔦屋重三郎は吉原に生まれ、吉原で育つ
蔦屋重三郎(以下、蔦重)は幼い頃に両親と生き別れ、吉原の引手茶屋(吉原の案内所のようなところ)に引き取られました。
養父や義理の兄、自分と同じく親と別れ、吉原に売られてきた少女たち、吉原という廓の中で血をこえた人とのつながりの中で育ちます。
24歳・吉原の小さな貸本屋から、出版人へと出世
義理の兄の軒先を借りて貸本屋を営み、遊女たちに本を届けたりしていた蔦重。
その頃、「吉原細見(吉原のガイドブックのようなもの)」を独占販売していた鱗形屋孫兵衛との縁ができ、吉原の情報を提供することと引き換えに吉原細見の下請けを担うことになります。
ここで本づくりの基礎を学び、徐々に商才を発揮し始めます。
33歳・日本橋に店を開き、様々なヒット作を生み出す
日本橋に錦絵・洒落本・狂歌本などを扱う本屋「耕書堂」を開業。
朋誠堂喜三二、山東京伝など様々な文化人と交流し、数多くのヒット作を刊行しました。
また天才絵師・喜多川歌麿を育て、浮世絵の名作を世に生み出しました。
【浮世絵師】
- 喜多川歌麿
- 東洲斎写楽
【読本作家】
- 滝沢馬琴
- 十返舎一九 など
41歳・寛政の改革で処罰の対象に
田沼意次が失脚した後、老中・松平定信による「寛政の改革」で出版業界は厳しい制圧を受けるようになります。
浮世絵や洒落本など、娯楽のための書物は風紀を乱すと考えられたためです。
江戸を追放されたり拷問を受けたり、蔦重自身も財産を没収されるなどの処罰を受けました。
そんな、自由に本を刊行できない風潮の中でも決して蔦重は筆を止めませんでした。
44歳・写楽の作品を一気に刊行
幕府の弾圧に晒されても、蔦重の意思は揺るぎませんでした。
そこで彗星の如く現れたのが「東洲斎写楽」です。
蔦重はいまだに正体不明で謎の多いこの絵師の才能を発掘し、独占的に作品を出版。
写楽は10ヶ月という短い期間の中で145点もの作品を発表し、忽然と姿を消しました。
47歳・脚気のため病死
蔦重は脚気(かっけ)のため47歳で死去しました。
この疾患は当時「江戸患い」とも呼ばれ、ビタミンの摂取不足によるものでした。
蔦重の死後、喜多川歌麿は作品の質が低下したと言われているほど、彼の影響力は大きかったようです。
まとめ
蔦屋重三郎とTSUTAYA(蔦屋)の経営者は血筋的には全く関係がありません。
また、蔦屋重三郎に子孫がいるのかどうかは判明していないようです。
2025年大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の主人公・蔦屋重三郎の生涯をかんたんにまとめると以下の通りです。
短い生涯の中でも意思を曲げずに生き抜いた蔦屋重三郎。
横浜流星さんがどう演じるのか、今から楽しみですね。
「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」は2025年1月スタートです!